祖母が亡くなりいよいよ空き家になる、築140年以上の歴史ある大きな父の実家。
見ていただいた建築家、武田さんの 「建物は、記憶の入れ物なんです。」 という言葉が刺さった。無くなったら、思い入れある人がボケてしまうかもしれない。
物には記憶が宿り何かを思い出すきっかけになるから、なかなか捨てられない。
特に年老いて物忘れがひどくなったり数多くの記憶があったりすると、
物や空間を見てから思い出すことも多くなるだろう。
物を持つことはそれらにまつわる思い出や記憶を所有することだ。
形の無いものは、自分が思い出さない限り無いものになってしまう。
だから私は、形のない思想や考えについては、直ぐに何かしらの物にすることはできなくても、せめてでも言葉に残しておきたいと、こうやって文章にしなきゃと躍起になる。
そう考えると本は偉大だ。知識や情報や思想を姿ある形にしたものだから
置いてあって表紙が見えるだけで、自分が何を(既に読んで)獲得して、自分が何を(これから読んで)獲得せねばならないか、が可視化されるし思い出される。
だから本に残したり、本を手に入れたりすることは大事なんだと思う。
本から物へ、物から空間の話題へ戻る。
先ほど、物を持つことはそれらにまつわる思い出や記憶を所有することと言及した。
だから老いれば老いるほど忘れたくないことが多くなり、物を捨てられないのだと思う。ただケチなだけじゃない。
空間もそう。
二年ほど前に、思いの成仏をさせないと空き家はなくならない という文章を書いた。今まさに同じ状況が父の実家に起きている。住むあてや貸すあてが無くても、家を残したい。それは先祖代々受け継がれた土地と建物であり、父と叔父伯母の記憶が色濃く宿る空間だから。家がなくなってしまったら、昔の記憶を思い出すのが困難になり、生きてきた時間でさえも心許なくなる高齢者もいるだろう。
未来に、より希望を見出せるのならいいけれど。
いまの私が思うことはふたつ。
ひとつめは、上記の考察を経て、私はなかなか簡単に、断捨離&ミニマリストが良い、とは言えない。空間や物をむやみに手放してしまうと、脳が部分的に抜け落ちた感覚になるときもあるかもしれない。
過去や今、そしてその連続線上にある未来を感覚的に把握して生きていくなら、形のある物を所有したり空間を保全するのが大事になるだろう。安定した空間や物を持たない生活はおそらく刹那的になる。
それでも何かの事情で、記憶の依り代とどうしても別れなければならなくなった場合、写真など何か代替の形に残して本人の気持ちの区切りもつけて、『成仏』が必要になるのだろうなぁ。
ふたつめは、物や空間に記憶が宿るなら注意深く選んだ方がいい。
すぐ捨てられるどうでもいいものはなるべく所有したくない。
自分の身を置く空間も、当事者の気持ちを左右し記憶や情が宿るから重要になる。仮ぐらしのアリエッティみたいな一人暮らし宅の有り方も見直さなきゃなぁ(私事)
つい先日、実家にある黒の革張りのソファが30年来のつきあいになることを知った。
「おまえたちは小さいとき、ソファの上で飛び跳ねてたなぁ!」
と父がぼやくのを聴いて少しバツが悪くなったけど、それもうっすら覚えてる。
きっとそれもいい思い出(なはず)。
形あるものは、過去といまと未来を結ぶ。
かと言って、全部をそのまま残しておくわけにはいかないし、新しいものが入り込む余地も無くなってしまうから、取捨選択に悩むのだろうなぁ
「柱の傷は一昨年の♪」的な引き継がれていく記憶装置である側面と、木・コンクリート等で作られた物理的な箱としての建物の価値を、どう折り合いつけていくか。
法整備や税制度によってある方向にベクトルを向けることは簡単(でもないが!)でも、その方向をどうするのかというコンセンサスを作るのが難しい。
空き家問題って、類型はできても、ホントそれぞれなので悩ましいです。