固い話が続いて書くの少し疲れちゃったし、読むの疲れると思うしで
閑話休題、の反対の、余談ですが話。
ひとにはいろんなルーツがあって、それらが交じり合っていまの自分ができる訳だけど、いくつかの印象深いシーンはある。そのひとつが小学生高学年の長期休みの折に、母の実家の京都の伏見区にある商店街の婦人服店に滞在してたこと。
たまに日本の商店街を歩いていると不意に思い出す。いまその物件は、お蕎麦屋さんに貸してる。
祖父母ともに倒れるまで婦人服店を続けていたそこは、
店舗スペースを通り抜け奥の扉を開けるとダイニングキッチンがあって
祖父はよくサスペンスドラマを鑑賞し、雑誌のパズルや読書や漢検の勉強にいそしんでいた。二階はおぼろげながら、ふたつくらい部屋があったように思う。
服の在庫に埋もれながら、私は窓際に小さな机を用意してもらい夏休みの宿題などをしていた。そのとき、商店街の有線でよくかかっていたのは、WOW WAR TONIGHT。Wow war tonightは、婦人服やさんの二階で勉強しているときに覚えました。ちなみに祖父は落語を流したまま眠りにつく習慣があり、就寝時によく聴こえてたけど、落語はさっぱり。
その後、祖父、祖母の順で病に倒れ、母も叔父も稼業を継がなかったから、その後はペットショップやさん、その次はお蕎麦屋さんに貸してる。
どこかしらの商店街を歩くとき、たまに二階を見上げると、小学4~6年生のときのあの空気を思い出す。
商店街に住むのはとても便利で、徒歩10分圏内で大抵の買い物は済んだ。周囲のお店をしている人も、親交があったり顔見知りだったりするので心理的に安全だった。母の日のプレゼントを初めてひとりで買ったのも伏見の商店街だったっけ。
母が大手筋の書店で女性のスカートの中を盗撮している男性を見つけたとき、盗撮犯を取り押さえるため、周囲のお店からガタイのいいお兄さんたちがわらわらと出てきたのもなかなか目を見張る光景だった。
もし、祖父母が早く倒れなかったら、老衰するまでお店をするか、それか60代半ばあたりで引退して店を貸していただろうか。
けど、住居を兼ねていて人間関係もあって便利なそこから、60代を過ぎて引っ越さねばならなくなるのは酷だろう。そんなことに思いを馳せる。
諸行無常だからひとは年を取るし、いつか亡くなる。日々、勉強して研究して仕事する人がいるから、新サービスや新製品は出るしライフスタイルは変わる。
次の打ち手に考えを巡らせがちなんだけど、過去の経験や感情も財産で。
形のないそれらは言葉にしないとともすれば忘れたり泡のように消えてしまうから
ここに書いておく備忘録の回。