私は新しいビジネスや時代の在り方にも、地域の文化にも京都にも不動産の流れにも、工芸にも興味がある。
統一性がないと言われてもしょうがない。それが私なんだから。
みんな多少なりともそうなんじゃないかな。
人は、人と対面するとき特に面接などで相手に一貫性を求める。
なぜなら、特に組織で働くときに相手を理解したいと思うし相手の動きをある程度読みたいから。その方がこっちも動きやすい。
だから私たちは相手に一貫性を求めるし、それを読み取ろうと躍起になる。
SNSのアカウントのフォロワー数をのばす手っ取り早い施策は、あるトピックや人格に統一して発信することだと、ひとまわり歳下の友達に教えられる。
違うことを発信したくなったら、別アカウントへ。
なぜなら急に別分野のことを発信に織り交ぜたら、フォロワーが混乱するから。
有名人や親しい知人ならいざ知れず、人間の多面性に触れたって受信者にとって何のメリットもない。コミュニケーションコストがかかって混乱するだけだ。
私も『コワーキングスペース』に詳しいブランディングをしていたときには発信力あったし引き合いもあったしフォロワー数も伸びた。けどいまは、FacebookやTwitterを見てくれているひとをまぁまぁ混乱させている自負はある。人間ってそんな簡単なものじゃないでしょという私の論理の押し付けだ。新しいビジネスや時代の在り方にも、地域の文化にも京都にも不動産の流れにも、工芸にも興味がある。
特に現代において、人間の嗜好や興味範囲に統一性がないのってしょうがないことだと思うんだ。
なぜなら昔と比べて、やりとりする情報量が格段に違うから。
昔(昭和くらい)だったら、本やツテをたどり人に会って話す手間がかかって手に入れた情報が、各人がスマホを持ち歩くとものの数十分で入手できる。
感想や思考を瞬時に発信して、様々な人と意見交換をして考えを深めることも可能なわけで。郵便等で数日かかっていたやりとりが数時間かそれ以下に短縮されるなんて
インターネット発現前の世のひとと比べると、やりとりする情報量は軽く3人分以上は生きるんじゃないかな。知らんけど。
だから何が言いたいかというと
日々これだけの量の情報に晒されてやりとりしているのなら
興味の範囲が拡がり、統一性が無くなるのも当然で、情報社会上は3人分以上の人生を生きててもおかしくない。インスタやツイッターのアカウントもそりゃ複数つくるさ。
で、人口の話。
人口として肉体の数を数えると、日本は減少してるのかもしれない。
けど肉体の数を数える意義は何だろう。
ひとりの人間が住む場所、食べる量、使う物質的な物 …etc 消費行動に伴う経済活動が停滞することが、肉体人口減少問題だろうか。
機械やシステムでも代用される肉体労働は昔ほど多くはない。人間の数が減って困ることは何だろうか。
納税者、納税額の減少?だったら、税の使い方、納税システムの見直しは必要。
労働力の減少?そりゃ何も考えずに働き方を変えなかったら肉体人口に伴い労働力は減る。けどいまは、諸々技術革新やコンテンツ醸成を加速させてきた情報プラットフォームがあるから、肉体人口と労働力は簡単に比例しないはず。
限りある物質や時間で経済や労働を数えている時点で、肉体人口増減での一喜一憂から脱却できない。
とそこで、メタバースが思い当たる。
リアルの世界では肉体は一つだし、いっときにひとつの服装しかできないし、
リアルで同時進行できる作業なんて、せいぜいひとつか、ふたつか、、無理して3つくらいだ。けどサイバー上では複数の生活を営むことができる。アルゴリズムのある活動だったらシステムが勝手に進めてくれる。
SNSでアカウントを複数つくるように、メタバース上でも肉体一人あたりいくつかのアバターで経済活動をするようになるのだろうか。メタバース上は、現実世界と比べて様々なリソースがまぁまぁ無限だし、物質的なゴミも出ないしまぁまぁサスティナブルだろう。
でそこで、また哲学的に「人間の欲求とは」「生きるとは」が問われてくる。
唯一無二のリアルに何を求めるか。
その再定義をすれば、ひとの知恵の利かせ方で肉体にとどまらない「人」は増えも減りもするのだろう。現代ではね。
さて、私はアカウントをどう分けよう。